上野公園の不忍池の由来はある事件?琵琶湖との関係や競馬場の歴史?

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あなたは上野公園にある大きな池の名前を知っているでしょうか。

都心部にある池では最大級ではないかともいわれる、

その池の名前は「不忍池」です。

 

縄文時代の頃には、この辺り一帯は東京湾の入り江だった場所なんですよ。

その後海岸線が後退したことで取り残されてしまい、

紀元前数世紀ごろには池になったと考えられているそうです。

 

もともとは海だったんですね。

 

現在では、

  • 上野動物園の中に位置している鵜の池
  • ボートをこいで楽しむことができるボート池
  • 一面が蓮におおわれている蓮の池

この3つに堤坊で分割されています。

 

上野公園の近くにはパンダで有名な上野動物園や東京国立博物館、

国立西洋美術館などの魅力的な施設も多いので、

不忍池の名前を知らなくても訪れたことや通りかかったことがある人は、

とても多いのではないでしょうか。

 

さて、先ほどから何度も登場している「不忍池」という名前ですが、

あなたは何と読むかご存じですか?

この池の名前は「しのばずのいけ」と読むんです。

何だか読みにくい名前ですよね。

 

この不忍池の名前には何か由来があるのでしょうか。

どうやら昔の上野の地名が不忍池の名前にまつわる由来のようです。

詳しく見ていきましょう。

 

 

上野公園にある不忍池の名前の由来とされる3つの説!悲しい事件が?

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不忍池の名前の由来を調べていると、

どうやら所説あるということが分かりました。

 

まず1つめが、忍の岡という地名からきたという説です。

現在上野公園があるあたりに、昔は上野山という山がありました。

そのあたり一帯のことを中世以降、忍の岡あるいは忍の森と呼んでいたそうです。

 

和歌で決まって詠まれる名所である歌枕として、

多くの歌にも使用されていたそうですよ。

 

現在、上野公園内に花園稲荷神社という神社があるのですが、

こちらの正しい社号は忍岡稲荷神社というそうです。

 

その他にも上野公園の東側にある蔦谷駅近くには忍岡中学校が、

上野動物園の西側にある池のはしには忍岡小学校があり、

今も「忍の岡」という地名が残っています。

 

どうしてそのまま忍岡池、のような名前にならなかったのか…

そのあたりは不明ですが、上野公園の弁財天入り口付近にある、

不忍池由来碑にも記されている内容みたいです。

 

2つめは昔、不忍池一帯にたくさんの笹(篠)が生い茂っていて、

輪のようだったために篠輪津(しのわづ)と呼ばれていたから、という説です。

 

しのわづが転じて、しのばずになったのでしょうか。

こちらは新編武蔵風土記稿という書物に記載されているようです。

 

そして3つめは、戦国時代にこの池で若い男女が忍んで、

密会をかさねていたという説です。

 

この密会を妬んだ継母の横やりもあり、

若い2人は池で死んでしまったという事件になった何とも悲しいお話。

こちらは望海毎談という書物に記載があるそうです。

 

不忍池と呼ばれていたのは15世紀頃からだといわれていて、

もはやどの説が正しいのか定かではありません。

 

しかし、「こんな由来があるんだなぁ」と考えながら池の周りを散歩してみると、

何だか今までとは違った風景も見えてきそうですよね。

 

 

滋賀県の琵琶湖と不忍池には共通点が!離れた地の謎のつながりとは?

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色々な名前の由来があるとされる不忍池ですが、

実は滋賀県の琵琶湖をお手本にしているといわれているんです。

 

江戸時代、徳川3代将軍家光が寛永2年(1625年)に、

天台宗の僧・天海を住職として上野山一体に、

天台宗関東総本山の寛永寺を建立しました。

 

天海は見立てという思想によって上野山を設計していったといわれています。

京の都には鬼門である比叡山を守る延暦寺が存在し、

そして近くには琵琶湖があります。

 

それに見立て寛永寺が作られ、不忍池には琵琶湖に浮かぶ竹生島を見立てて、

中の島(弁天島)が同じ位置に作られました。

まるで東京の小さな琵琶湖のように、忠実に見立てられています。

 

江戸時代であれば現在の不忍池に比べて倍以上の広さがあったといいますから、

まさに東京の琵琶湖というに相応しい姿だったんでしょう。

 

幕府の首都である江戸を、天皇の首都である京都に負けないような、

格式あるものにしたいという幕府の強い意志や、

プライドが垣間見えるような気がしますよね。

 

 

不忍池の歴史を遡る!上野公園内の競馬場や埋め立てなどの驚きの変遷!

江戸幕府の開幕によって都市開発が行なわれる以前の日本には、

沼なのか池なのか分からないような人の住めない湿地帯が広がっていました。

 

幕府の命令により急ピッチで開発が行なわれる中、

そうした湿地帯はどんどんと埋め立てられていき、

多くの天然湖が消失していったといいます。

 

不忍池もあわや埋め立ての危機にあった可能性もあるようですが、

先に述べた通り琵琶湖をなぞらえた景観づくりのおかげもあり存続できます。

 

その後、明治時代には上野不忍池競馬場を建設するために、

池を縮小する工事が行われました。

 

パリ・ブローニュの森にあるロンシャンの競馬場を意識し、

貴族の社交場としてふさわしい場所であるということで、

上野の不忍池が選ばれたそうです。

 

上野公園内に競馬場があったなんて…今では想像もつきませんよね。

 

その後、戦後の食糧難を乗り越えるために、

池の水抜きをして、水田として利用されたこともあるんですよ。

さらに、戦後の復興の中で野球場を作るという計画もあったそうですが、

市民の反対もあり、その計画はなくなりました。

 

このように不忍池は縮小や埋め立ての危機を乗り越えて、

今でも私たち市民の憩いの場として存続してくれているんですね。

 

 

まとめ

上野公園と言えば動物園や博物館などに意識がいきがちですが、

不忍池のたくさんの歴史を知ると、

何だかもっとゆっくり池の景観を楽しみたくなってくるから不思議ですよね。

 

江戸時代、大名屋敷には庭園池が数多く存在していたそうですが、

それは民衆に開放されていたわけではありません。

 

上野公園の不忍池周辺は、春にはお花見で、

多くの江戸市民を楽しませてくれていたのでしょう。

そして現在も、私たちは四季折々の美しい自然を不忍池で楽しむことができます。

 

ぜひ上野公園の不忍池で歴史に思いをはせながら、

きれいな自然を見に行ってみてはいかがでしょうか。

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